黄金の国ジパングとは?マルコ・ポーロが語った伝説
「黄金の国ジパング」とは、13世紀にイタリアの商人マルコ・ポーロがその著書『東方見聞録』の中で紹介した日本の呼び名です。
マルコ・ポーロは、当時ヨーロッパの人々が見たことのないほどの金に恵まれた島国として「ジパング(Zipangu)」を語りました。
その表現は多くの人々の好奇心をかき立て、やがて「日本=金のあふれる国」という伝説が世界に広まりました。
この記述が、後の大航海時代にも強い影響を与え、冒険家たちの夢の目的地となっていきました。

「東方見聞録」に記された謎の黄金国
マルコ・ポーロの『東方見聞録』には、日本に関する記述として「その国には金が非常に多くあり、宮殿の屋根も金で覆われている」という表現があります。
彼は「ジパング」と呼ばれる島が中国の東の海にあり、独立した豊かな王国であると述べています。
この記述の中には、日本が当時の中国人から「金の豊かな島」として認識されていた様子がうかがえます。
この情報がヨーロッパにもたらされたことで、日本は遠く離れた神秘の黄金国として伝説化されていきました。
マルコ・ポーロは実際に日本を訪れたのか?
実は、マルコ・ポーロが日本を実際に訪れたという証拠は一切ありません。
彼の日本に関する記述は、元(モンゴル帝国)の宮廷で仕入れた情報に基づいており、実際には中国人やモンゴル人の伝聞に頼った内容です。
現在の歴史学でも、「東方見聞録」の日本描写は実見ではなく、異国への想像と誇張が入り混じった情報であるという見方が主流です。
そのため、彼が伝えた内容と実際の日本には大きなずれがあると考えられています。
13世紀のヨーロッパに広まったジパング伝説
『東方見聞録』は、マルコ・ポーロがヴェネツィアに帰還した後、牢獄で口述した内容をもとに記録されたとされています。
この書は、13世紀末から14世紀にかけてラテン語やフランス語などに翻訳され、瞬く間にヨーロッパ中に広まりました。
ジパングという言葉は、「金が溢れる謎の島国」として、特に探検家や商人の間で注目を集めました。
ヨーロッパにおける世界観では、日本は中国のさらに東にある「未開の宝島」として位置づけられ、大航海時代の夢の目的地となっていきました。
「ジパング」の語源と日本が黄金の国と呼ばれた謎

「ジパング」という呼称はどこから来たのか?
「ジパング」という名前は、もともと中国で日本を指す「ジーペン(日本)」という発音に由来しています。
これがマルコ・ポーロのいたヴェネツィアで「Zipangu(ジパング)」と転写されたと考えられています。
中国語の「日本」は「リーベン(Rìběn)」ですが、当時の福建方言では「ジーペン」と発音され、それが元の宮廷や商人を通じてポーロの耳に届いたとされています。
この音がヨーロッパに渡る過程で変形し、「Zipangu」という表記が生まれたのです。
日本における金の産出量と歴史的背景
日本では古くから金が産出されており、特に平安時代から鎌倉時代にかけて金山の開発が進みました。
代表的な金山としては、陸奥国(現在の岩手県)の「平泉金山」や、新潟県の「佐渡金山」があります。
たとえば、佐渡金山は1601年に本格的に開発され、江戸時代には年間400キロ以上の金を産出したと記録されています。
こうした金の豊富な産出は、外国人にとって「日本=黄金の国」という印象を強める要因となったと考えられます。
平安・鎌倉時代の日本で金はどう使われていたか?
平安時代から鎌倉時代にかけて、日本では金が宗教や貴族文化の象徴として多く使用されていました。
たとえば、仏像や仏具には金箔が施され、建築物の装飾にも金が用いられました。
中でも有名なのが中尊寺金色堂で、堂全体が金箔で覆われていることから、当時の金工技術と信仰心の深さがうかがえます。
このように金は神聖なものとして扱われ、権力や信仰の象徴として重要な役割を果たしていたのです。
黄金の国ジパングと中尊寺金色堂の関係
金箔に覆われた寺院の存在と海外への情報伝達
中尊寺金色堂は、1124年に奥州藤原氏の初代・藤原清衡によって建立された仏堂で、堂内外をすべて金箔で覆った壮麗な建築として知られています。
装飾には大量の金が使用され、当時の記録によると、建築と装飾に使われた金の量は約20キログラムにも及ぶとされています。
このような寺院が実在したという事実が、東アジア経由でヨーロッパに伝えられ、日本が「黄金の国」として語られる下地を築いた可能性があります。
奥州藤原氏の栄華と金の文化
奥州藤原氏は、11世紀末から12世紀末にかけて東北地方で強大な勢力を誇った豪族で、平泉を政治・文化の中心とする独自の王国のような体制を築いていました。
この地には豊かな金資源があり、それを背景に金をふんだんに使った寺院や装飾品が数多く造られました。
中尊寺金色堂をはじめとする壮麗な建築は、金が単なる資源ではなく、権力の象徴、そして精神文化の支柱として機能していたことを物語っています。
中尊寺金色堂は黄金伝説の源泉となったのか?
中尊寺金色堂のような金をふんだんに用いた建築物が、マルコ・ポーロの「黄金の国ジパング」の記述に影響を与えた可能性は高いとする学説も存在します。
たとえば、元代の中国人商人や官僚が日本に訪れた際に得た情報が、元朝を通じてポーロに伝えられたという説があります。
つまり、中尊寺金色堂の存在がジパング伝説の「金で覆われた宮殿」という描写の元になったと考えられるのです。
情報の伝播は人から人へと口伝えで行われたため、誇張や誤解が生じる余地も十分にあったといえるでしょう。
黄金伝説の真実と誤解

当時の日本の実態と伝説の乖離
12〜13世紀の日本は、地方豪族の勢力が強く、武士階級が台頭し始めた時代でした。鎌倉幕府による統治が行われていたものの、国家全体が金に満ちていたわけではありません。
庶民の生活は質素で、金は貴族や寺社に集中していました。
マルコ・ポーロが描いた「建物全体が金でできている」といった描写とは大きく異なり、実際の日本では金は限られた用途と階層において使用されていた貴重な資源でした。
例えば『吾妻鏡』などの史料を見ても、金は貢物や装飾品として使用されることが主であり、建築全体を覆うような事例は稀でした。
モンゴル帝国からもたらされた情報の歪み
マルコ・ポーロが仕えていた元(モンゴル帝国)は、広大な版図と交易網を持ち、多様な文化圏の情報を一手に集めていました。
彼の日本に関する情報も、元の高官や中国人商人からの伝聞によるものであったとされています。
しかし、そうした情報は正確さよりも印象や物語性が優先される傾向があり、日本に関する情報も誇張されたり脚色された形でヨーロッパに伝わった可能性が高いのです。
また、元寇(1274年・1281年)を通じて日本が未知の敵国として記憶され、異国的な想像がさらに強化されたことも、情報の歪みに拍車をかけた一因と考えられています。
コロンブスを動かした黄金の国への夢

コロンブスが求めた「黄金の国」への航路
クリストファー・コロンブスは、1492年の航海において「ジパング(黄金の国)」を目指して大西洋を横断しました。
彼の航海日誌には、「黄金に満ちたジパングを目指す」という記述があり、その中で東洋にある富の島を探し求めていたことがわかります。
彼は、マルコ・ポーロの『東方見聞録』に影響を受けており、アジアの東端にあるジパングこそが金銀財宝の宝庫であると信じていました。
インドと日本の混同がもたらした新大陸発見
当時のヨーロッパでは、アジアの地理に関する知識は非常に限定的で、インドとジパング(日本)を混同することも珍しくありませんでした。
コロンブスもその例外ではなく、カリブ海の島々に到達した際には、そこがインドやジパングの一部であると信じていました。
当時の世界地図には東アジアの詳細な描写はなく、未知の地域への想像が探検家たちの野心を刺激していたことがわかります。
まとめ
「黄金の国ジパング」という言葉は、13世紀のヨーロッパにおいて日本が「金に満ちた神秘の島」として伝えられたことに由来します。
マルコ・ポーロの『東方見聞録』に登場するこの伝説は、実際の日本の姿とは大きく異なるものでありながら、大航海時代を動かす原動力となりました。
中尊寺金色堂や奥州藤原氏の栄華は、そうした伝説に少なからぬ現実味を与えていたのかもしれません。
黄金の国という幻想は、歴史の中で幾度も人々の夢をかき立て、世界の動きを変えていったのです。
よくある質問
日本はなぜ黄金の国ジパングと呼ばれるようになった?
マルコ・ポーロの『東方見聞録』において、日本が「金にあふれた島国」として紹介されたことがきっかけです。
当時の日本には金を使った建築や仏具が存在し、とくに中尊寺金色堂のような金箔に覆われた建築が伝聞を通じて伝わったと考えられています。
その印象がヨーロッパに伝わり、日本は「黄金の国」として定着しました。
黄金の国ジパングと言った人は誰?
「黄金の国ジパング」と表現したのは、
13世紀のヴェネツィア商人マルコ・ポーロです。
彼は元(モンゴル帝国)の宮廷で見聞きした情報をもとに、日本のことを「Zipangu」と記し、その国には「金があふれ、王の宮殿はすべて金でできている」と述べました。
この記述が後世に広まり、日本が黄金の国と呼ばれるきっかけとなりました。